デジナーレの精神

みなさま、こんにちは!

小樽美術館にて催されている「小樽運河・いまむかし展」は、4月25日からスタートして約1ヶ月が経ちました。おかげさまで、すでに来館者数は1,000名を超えており、今後もますます盛況となりそうです。より多くの方々に、絵画を通して小樽運河についてもっと知って頂ければと思います。

今回は、小樽美術館の学芸員である星田主査に教えていただき、小樽運河保存運動の中心者である藤森茂男氏が大切にしていた精神を紹介させていただきます。

*写真は代表作の一つ、「赤い運河」です。

 藤森が座右の銘としていた言葉に「デジナーレ」がある。デザインの語源となるラテン語で、“人間生活のなかで、物事を予測し、それに具体的に対処する”という意味が込められている。この言葉を自身の行動の励みと自戒にし、小樽で生活に即したデザイナーとして生きて行こうと決意したのである。斜陽と呼ばれた小樽を活性化する方法はないか検討し、具体的に市民の心をつかもうと「潮まつり」を提案したのは、そうした考えに基づいていた。

 運河保存の運動も自己ではなく他者のため、運河が全面保存される奇跡を純粋に信じ、命懸けで最初の第一歩を踏み出した。会社の危機と病から、事務局長辞任という苦渋の決断をした彼は、運動の表側からはその名を消したが、今度はひたすらに運河の絵を描き続けることで、新たな運動を始めたのだ。のちに、描きためた作品を発表する拠点が妻、娘たちに支えられてはじめた小樽梁川通りの「運河画廊」であった。

 藤森は連日運河の絵を描き続けた。デザイナーは本来依頼があって使用目的を明確にしたうえで制作に着手するものだ。画家は心の中に作者が表現したいものがあって、他人の制約を受けずに描く。藤森はデザイナーであったが、膨大な点数の運河作品は誰に依頼されたものでもなく、絵画との境界はもはや無意味なものだったのかもしれない。描かれた小樽運河は、季節感と詩情を漂わせ、鉛筆、ペンなどの線の濃淡や強弱、色彩の効果を活かして抜群の描写力と表現技術が発揮されている。

 運河が持つ魅力を多くの人に知ってもらいたい。藤森の制作は、運河を全面保存したいという運動のもはや最終手段であったという点で、他と一線が引かれる。藤森にとっての運河の保存とは全面保存しか有り得なかったが、その志とは異なるところで運動は終結した。1983(昭和58)年11月12日、運河のくい打ちが始まる。

 「赤い運河」はその日、藤森が悔し泣きしながら、カンバス一面に赤い色を塗り、怒りと哀しみのなか一日で一気に描き上げた作品である。右半身の自由を失っていた彼は、筆を右手に紐で縛りつけて描いたという。

 藤森の運河にかけてきた情熱と無念の思いが伝わってくる。

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